はてなキーワード: モデルとは
切れたんで続き
インタビューを見るに、この脚本家はとにかく「母性」が描きたくなくて意図的に寅子を毒親にしたらしい。
あと恐らく「一般的な男女の恋愛」も嫌いだと思う(同性愛やその他セクマイは大好きみたいだけど)
そういう人が、「最初の夫と死に別れて一人で子供を育て、後に再婚した」
「家庭裁判所で多数の非行少年少女を更生させた、少年たちに真摯に向き合い心を開かせるのが得意で三淵マジックと言われた」
二度も結婚してるからそれなりに恋愛も描かなきゃならない(恋愛感情なしの打算婚を二度もする、ってのはドラマ的に共感されないだろう)
家裁で働いているからには少年少女と向き合わせなければならない。
なのに脚本家はそういうのを描きたくない、と来た。
これが夫がずっと生存しているなら「本人は子供が苦手だけど夫がフォローする」設定に出来るし
子供に関わる仕事をしていなければ子供と向き合わせる必要もない。
結婚だって若い頃一度するだけならもっと描きやすかっただろう。
なのに何でこんな題材を選んだ。
NHK側が提示したモデル候補数人の中から選んだそうだけど、他にもっと適したモデルがいなかったのか。
三淵嘉子を提示する時点で、NHKとしては「主人公の母性で少年たちが更生していく」話を期待していたんじゃないのか。
そもそもここまで史実を無視して自分が描きたいものをぶちこむ人だとオリジナルにするべきだったかもしれないが。
弁護士ならひたすら依頼人の味方でいいが、裁判官はどちらかに肩入れも出来ないし
守秘義務あるから抱えてる案件に対して同じ案件に関わってる同僚以外と語る事もできない。
ドラマ的に「映える」場面が作りにくい。
終盤の大きな裁判も、原爆裁判は寅子は史実通りの判決文を読み上げる汐見の隣に座ってるだけ(せめて史実を無視して寅子に判決文読ませては?)
尊属殺はそもそも直接的な関わりもなしで、どちらも「弁護士の」よねの方が明らかに活躍していた。
花江と並んで「寅子とは対称的な生き方」をする女性として作られたというよね。
つまり「仕事も結婚出産もする女」「結婚出産して家庭に生きる女」「結婚出産はせず仕事に生きる女」なわけだ。
更に「恵まれた育ちの寅子と花江」に対して「恵まれない育ちのよね」という対比もある。
でもこの時代に女が「仕事だけして生きる」「女の力だけで生きる」のは無理があるので、
でも恵まれない育ちなので身内設定には出来ない(というか父親が虐待親だし)
という事で若い頃はカフェ燈台のマスター、戦後は轟がよねサポートキャラとして設定されている。
となるとゲイ設定が都合が良い。
という事で(多分)轟はゲイになった。
ただ脚本家の主義主張の為だけで実はゲイでしたとやってるわけではなく、物語上の必要性があってゲイである。
マスターも裏設定でゲイじゃないかと思う。上野だし(上野は戦前からゲイタウンでもある)
因みによねと涼子はアセクシャルという設定もあるらしく、涼子が離婚したのもそのためだとか。
(ってかキャラ全員に裏設定ありそう。最後まで結婚しなかったキャラはもしかして…)
でもこういう構図って結局「同性愛者を都合よく利用している」ことでもあるんだよね。
自分を性的に求めてこないが助けてはくれる、イマジナリー「女の理想の男」感というか。
「NHKの朝ドラという注目度が高い放送枠で同性愛者を取り上げる意義」はあると思うが、描かれ方が「ゲイ=女にとって都合が良い男」ってのはどうなんだろうか。
その辺がもやもやした。
当初は面白く見ていたのに最後の方はもはや「ここまで来たからには最後まで見てやる」という義務感で見ていた。
何がそんなに引っかかったのか、という事をここでまとめて書いてみる。まとめと言いつつまとまりはない。
「妊娠して倒れた寅子が穂高に仕事やめろと言われ、勤め先の事務所に妊娠をバラされて辞めさせられた」件。
ネットでは未だ賛否両論のようだが、あれはそもそも穂高の真意が分かりにくかった。
「母親になるからには二度と仕事に戻らず育児に専念すべき」と考えていたのか、
「今は仕事を続けられる体調ではないから辞めるべきだが、産んで落ち着いた後に仕事に戻ればいい」と言う意味なのか?
どうやら脚本家は前者のつもりだったらしい?けれど、
(「資格があるのだから後で戻れるだろう」と言った台詞もあったので)後者の意味にも取れるし
ネットの反応を見ていても後者の意味に取った人が多かったと思う。
実際仕事を続けられる体調ではなかったのだから、一旦辞めろという穂高の言う事は普通に正論だ。
妊娠出産で死ぬ事も珍しくない時代に寅子の態度はナメ過ぎている。死んでもいい覚悟だというのならともかくそんな認識もないようだったし。
なのに寅子が激怒して完全に辞めてしまい、よねに対しても二度と戻るつもりはないと啖呵を切ったのが当初意味が分からなかった。
(後でどうやら脚本家としては前者のつもりだったらしい?というのを知った)
でも前者ならもっと前者だと分かりやすく示すべきで、視聴者の大多数が勘違いしたのは脚本の荒さ故でしかない。
この時はその後の戦争激化→家族が続々死亡→日本国憲法、という怒涛の展開もあり何となく皆忘れていたのに
穂高の退官パーティーで寅子がこの話を蒸し返して場をぶち壊す暴挙に出た上
謝りもせず、結局穂高が大人の対応で納めて(というようにしか見えなかった)そのまま死んでしまった辺りから
寅子が理解できないという声やドラマ自体への批判も増えてきたように思う。
あれも脚本家が「親子喧嘩なんです」と言い訳してたが、そもそも親子じゃないし。
若者がやってるならともかく30半ばで他人を疑似の父親扱いしてあの態度、というのなら幼稚すぎ&甘えすぎだろう。
「社会的地位を得るための契約結婚」だったはずなのに突然夫に「恋をして」セックスして妊娠。
普段全く恋愛感情に疎い寅子が突然そうなったのでポカン。発情期になった動物じゃないんだから…
別に子供を産む事を誰かに強制されたわけでもなければ頼まれたわけでもないのに
そのせいで仕事を辞めて怒ってるからそもそも妊娠しなきゃ良かったじゃん自業自得だろともなる。
うるせえ史実で産んでるんだから産まなきゃならねえんだよ!ってのは分かってるけど
どうせ「結婚してない女は信頼できない」の後には「子供がいない女は信頼できない」が来るんだから
いっそ「社会的地位を得るための出産」にしてしまえばまだ自然な展開になっただろうに。
それならその後子供に関心がなくてはると花江に丸投げする展開も納得がいく。
「自分で望んで産んだ」割にその後子供に関心がなさすぎなんだよね。
最終回で「人が宣う地獄の先にこそ私は夢を見る」と米津の歌が流れたが、どこが地獄なのか最後まで分からず。
裕福で理解ある両親の元に生まれ、勉学でも大した苦労もせず悩みは精々生理が重い程度、
社会的信用のために結婚しなきゃならんとなったら究極の「理解のある彼くん」たる優三が結婚してくれ、
家庭と仕事の両立や義実家との関係に苦しむ周りの女たちを尻目に
いつまでも実家住まいで家事は家族が全部やってくれて夫が天涯孤独故に義実家も存在しない生活。
生活費を稼ぐ必要もなく父親が養ってくれるので、仕事を辞めようと思えばすぐ辞められる生活。
上記の穂高の件も、妊娠して初めて「いくら金と理解ある家族がいようが妊娠出産だけは自分一人でやるしかなく思い通りにもならない」
事に直面してキレたんじゃないか?と思えるくらいの恵まれ人生。
戦中戦後は苦労したもののそれはこの時代の人ほぼ全員がそうだし、
その後の再就職先では周囲から可愛がられチヤホヤされて家事育児はやはり他人任せで仕事だけしてればいい生活、
子供と二人で新潟行ってもなぜか大した苦労もせず仕事と家事育児を軽々両立し、
その後はイケメン金持ちエリートと再婚して向こうの家族ともなんか知らんが上手く行き、
どんどん出世し子供も最終的にお母さんのお陰で幸せと言う子に育って人生最高!で終了。
なんか地獄の要素あったか?そりゃこんだけ恵まれた人生なら最高だろうよ。
地獄だったのは周りの女たちだろうよ寅子じゃなくて。
学生のうちは「成績が良い」「難しい試験に受かった」というだけで「優秀な子なんだな」と思えた。
でも就職後は仕事っぷりはろくに描かれず、周囲からただ優秀だと言われるだけ。
家裁で非行少年や家庭の問題を担当する仕事をしているのに自分の子の事すら理解してないし、
女性たちから「姑との関係が」「夫から離婚されたら生きていけない」などと言われてもピンと来ない、
終盤とってつけたかのように美佐江の娘を説得して救うという展開を入れていたが、
今までの積み重ねがないので突然そういうの入れられてもと思った。言ってる内容も薄っぺらかったし。
そもそも裁判所で雇われた理由は「女がいればGHQが喜ぶから」で、正規の採用試験を得て選ばれたわけでもなく
その後芸能人にラジオで紹介されて有名人になったのも「女だから」。
上司のおじさん達(桂場や多岐川やライアン)に可愛がられるのも結局「女だから」。
なので段々「大して仕事も出来ないのに男ばっかの職場で可愛がられてる姫」に見えてくる。
「女性差別と闘っている女」なのではなくむしろ「『女』を利用してのし上がる女」じゃないのかこれ。
寅子の親友兼兄嫁であり、寅子とは対称的な生き方(女学校を出てすぐ結婚して一生専業主婦)をする女性として
脚本家が「もう一人の主人公」くらいに力を入れて描いていたという花江。
脚本家曰く「働く女の裏には花江のようにそれを陰で支える女が不可欠だが、
そういう女が世の中で透明化されたりバカにされているのが腹が立つ」ので花江をメインの一人にした、
あくまで「望んでそういう生き方をしている女性」として描いたんだそうな。
女学校時代の花江は確かに結婚に憧れていて、自ら望んで卒業後すぐ結婚したが
あくまで寅子の兄が好きで「好きな人と結婚する」のが憧れという子だった。
なのにその結婚した主な理由たる夫は戦争でさっさと死んでしまい、後は未亡人として只管家事育児をするだけの生活。
それで家事や育児を楽しんでやっているのならまだしも、当初は上手く行かず姑(寅子の母)とモメたり寅子に嫉妬したり
私なんて女中みたいなものとか、(自立出来る寅子と違って)私の老後は誰かに世話にならなければいけないと自虐してみたりと
その立場を心底楽しんで納得しているように見えない。
そもそも、育児は(自分の子だけではなく寅子の娘まで自分の子と同様に世話をし可愛がっていたくらい)好きだろうけど
「家事を終えた後居間で休みながら家族が幸せそうな姿を見るのが好き」とは言ってた気がしたが。
家族が好きで家族の生活を成立させるために家事は行うけれど、家事そのものは別に好きではないんじゃないかと思う。
寅子が法律の勉強や法律に関わる仕事そのものが好き、というのとは対照的に。
子供たちの成人後も結婚相手が皆寅子のようなバリキャリだったため「自分と一緒に家事をしてくれる専業の嫁」もおらず、
年をとってもずっと一人で息子世帯の家事&孫育てまでやる状態になっていた(途中から寅子の娘が手伝うようにはなっていたが)。
他に趣味があるわけでもなければ、友人がいたり遊びに行くような描写もなくずっと家事育児だけ。
そもそも「本人が幸せって言ってるから幸せなんだ、だから何でもかんでも頼ってやらせていいんだ」ってのが?
それをやりがい搾取と言うんじゃなかったっけ?
脚本家は「私は専業主婦の事もちゃんと理解して尊重してます」とばかりに意識高い事を言っていたけども
結局のところこういう描き方しか出来ない。
いやまあ分かるんだよ、今時「家事そのものが好き」な女性なんて視聴者の大多数が共感しないだろうし
幸せそうで人生に満足している専業主婦を描いたらヘイトを食らいかねないってのも。
(そもそも演者の力で何とかなってるキャラだと思う、下手な俳優がやったら嫌われてたかもしれない)
それよりは働く女に嫉妬もすれば引け目も持っていて自虐もするリアルな専業主婦を描いた方が共感されるってのも。
でも寅子を初め他の女キャラたちがエリートだったり自分が好きな事を好きなようにやってる人たちが多い中で
くすぶってるリアルなありがち専業主婦像を描いて「私は彼女たちの事尊重してます、彼女たちはあれで幸せなんです」と言われてもな。
意識高い脚本家インタビューさえなければ気にならない程度ではあるんだけどな。
そういや最終回では推定80代くらいでもまだ生きていて、何故か寅子の娘に介護されていたが
「お母さんが大好きだから自分がお母さんの世話をするんだ」と言っていた息子たちはどこへ行ったのだろうか。
母親が動けるうちは家事や孫育てを散々やらせておいて年食って要介護になったら寅子の娘に丸投げしたのか?
そういや花江のひ孫も寅子の娘が世話していたが、これも花江の息子の子供の子供だろうに丸投げ?
寅子の娘、優未。
「(母親にとって都合が)良い子」なのか、それとも「毒母のせいで歪んだ子」なのか。
脚本家がどういうつもりで描いていたのかが分からないまま、最終回では寅子と抱き合って幸せだと言って終わったが
とにかくハッピーエンドで終わらせなきゃならねえんだよ!とばかりに取り繕ってる感がした。
父親は早死にし母親に放置され、義理の伯母である花江に・花江の息子たちと一緒に育てられた、という生育環境を考えると
「大人や男子に媚びて取り入るのは上手いが、同世代の女子とは仲良くできない子」であるという設定は説得力があった。
「寅子の前では『いい子』を演じている子だったが、母子二人で生活していくうちに『いい子』の仮面が取れて寅子と何でも本音で話せる子になった」という事になっていたが
それもまた「いい子の演技」なんじゃねーの?「何でも本音で話しているという演技が上手い子」になっただけでは?という感じがした。
寅子の再婚時も再婚相手の男やその義母に取り入り可愛がられるようになる一方で、相手の子供(特に同性である娘)には嫌われるというのもリアリティがあった。
再婚時に相手の子供から良く思われていないのを不安に思った寅子に対して「私は不安はないの。だってお義父さんはお母さんの事が大好きだから」と言っていたのも、
実際相手の子供の前で再婚相手やその義母にベタベタして可愛がられてるのを見せつけていたのも
要するに「相手の子供から父親を私たちが奪ってこちらの味方につければいい」って考えてるって意味だよね…優未、恐ろしい子…と思ったけれど
こういった描写の受け取り方が脚本家の意図通りなのか、脚本家はそのつもりはないのにこちらがそう邪推しているだけのかが分からない。
そうやって「周りの大人にとって都合が良い子」をしながらかわいがられて生きていたのに、
大人になって突然院を辞めフリーターになったのは遅れてきた反抗期かモラトリアムか何かか?と思ったら
最終的には色々な仕事を掛け持ちしながら花江の介護と他人の子供の世話をしていたのもよく分からない。
それも全部好きでやってると言いつつ自分の人生失敗だったかもと自虐し出すのは花江と同じパターンだが。
つーかモデル通り「研究者になりました」じゃだめだったんだろうか。
再婚相手の子たちも終盤は人生迷走してたので、「子供が親の望み通り順風満帆な人生になった、じゃ面白くないから展開ひねらせた」だけかもしれないが。
花江に家事育児丸投げ状態から新潟転勤になり、優未は置いていけと言われる中で連れて行って全て自分でやらなきゃいけない状態に。
なのに大して苦労せず。今と違って便利な家電もサービスもろくにない時代に。
仕事内容はほぼ描かれなかったが、支部長というのはそんなに楽な仕事なんだろうか。
「子供がいるから定時で帰らなければならないのに仕事が終わらない」「大事な予定が入っていて絶対に休めない日に限って子供が熱を出す」
令和の子持ち様じゃあるまいし、支部長という立場だから同僚に丸投げじゃ済まない仕事も多々あると思うんだが。
実際夜中に部下が令状貰いに来る描写があったが、でも毎日定時で帰れて家事の時間も十分に取れるんです、ってか?
優未は3年間の赴任中一切体調を崩さないしケガもしない丈夫な子だったのか?腹は壊してたが。
昭和の陰湿な田舎という設定のはずなのに、東京から来てなんだか裕福そうで言葉も違う子供が友達も作らず孤立してても
いじめのターゲットにならない小学校の治安も良すぎる。昭和の小学校こんな平和じゃないだろ。
「母子家庭の仕事と育児の両立の苦労」がまるで描かれていない。せいぜい一日だけ飯作れなくて代わりに菓子食っただけ。
「優秀な寅子はその気になれば苦労せず仕事と育児が両立できる。苦労してる現実の母子家庭は母親が無能だから」とでも言いたいんだろうか。
当初は小学校低学年の優未を家に長時間一人で放置し家事をやらせるのも、この時代なら当たり前かもしれないが今の価値観だと虐待なのに
このドラマは普段は今の価値観で動いてるのでここだけ当時の価値観では違和感がある。
稲がいながら何故か毎日雇おうとしないのも意図がわからない。史実だと家政婦雇ってたのに。
花江がはるの死後一人で家事するのに苦労するという描写があった後にこれなので
「花江が専業主婦なのに家事に苦労していたのは無能だから。優秀な寅子は楽々仕事と家事を両立できる」とでも以下略。
私は専業主婦の事理解と尊重してますという脚本家のドヤ顔は何だったんだろうか。
ネットが揉めに揉めた夫婦別姓展開。ろくにドラマを見てない人が絶賛し、ろくにドラマを見てない人が叩いていた。
お前らドラマ見てからもの言えや、という事で見ていた立場から書くが
寅子も自分で言っていたけど、そもそも「お互い経済的に自立していて子供もおり新たに子供を作る予定もない」のに結婚する意味ある?
いや現実のこの時代の人ならあっただろう。死別とは言え独身のままでは生きづらいとか、
未婚の男女が頻繁に会っているだけでふしだらだと言われるとか(特に裁判官なんて堅い仕事の人間なら尚更)あっただろうし。
でもとらつば世界はずっと独身だろうが未婚の男女が同居してようが(よねと轟は周囲にどう思われてるんだか)誰も何も言わず平気なのに結婚する意味ある?
いやうるせえ史実で結婚してるんだから結婚しなきゃならねえんだよ!ってのは分かるが。
結局恋愛脳的理由しかなかったのか、「寅子さんの夫を名乗りたいから」「私も航一さんの妻を名乗りたいわ」なんて言ってたけど
航一はともかく、寅子そんなキャラだったっけ?
まあ優三の時みたく新潟編最後に突然発情したのでそこでキャラ変わったのかもしれない。
でもって同姓にしたくないから別姓にするために事実婚、という史実無視の超展開になったが
いやうるせえ脚本家が夫婦別姓ネタをねじ込みたかったんだよ!ってか?単にそれだけであんな不自然展開?
モデルの三淵嘉子は再婚時に相手の姓に変えた(から「三淵」嘉子)けど不満も葛藤もあったっぽいので
同じように「最終的に相手の姓に変えたが不満も葛藤もあった」と描けば十分問題提起になったと思うんだが…
そもそも作中では事実婚してその後何の問題も起きなかったので、これだと「じゃあ別姓にしたけりゃ事実婚でええやん」にならない?
折角同性婚と絡めて「結婚しなければ二人の関係は死んだ後残らない」とか言ってたのに、事実婚でええやんになったら同性婚も必要なくなるような?
しかし親の突然の恋愛脳に振り回されて他人と同居するはめになった子供たちがかわいそうである。
これも現実のこの時代の価値観なら「子供の事なんかいちいち考えなくて当然、子供は親に黙って従って当然」だけど
とらつば世界は基本はそうじゃないのに子供の事一切考えてなかったよなこいつら。
当然子供と揉めたけど、それもなんかやはり超展開で解決してたし。
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増田がスレンダー好きでデブやぽっちゃり女は眼中にないんだろうから体感Aカップが普通になるのは当たり前ではないだろうか
全女性を平均すると結局はCとかDになるんじゃないの?
昔はブラジャーはだいたいDまでしかなくて、昔のデブはアンダー90のDとかそういうので妥協してたんだよね 当然体型は崩れる
Xで朝ドラの虎に翼を叩いているアカウントが軒並みその比較で大河ドラマの光る君へを持ち上げているんだけど。
いや、不倫じゃん…。主人公に不倫させてそれを美化させるという、紫式部に対する尊厳破壊にも程があるドラマじゃん。
虎に翼と比べるまでもなく、文句無しの最低最悪、クソドラマだとしか思えないんだが。
モデルの人に対してちょっとでも敬意があったら出来ないでしょ。
同じ改変でも、史実では不倫していてドラマではそれをなかった事にする方向の改変なら理解出来るんだが、どうして逆をやってしまうのか。
で、カーネーションって朝ドラも虎に翼との比較でよく持ち上げられていたのは知っていたけれどその内容はつい最近まで知らなかった。
まあこっちは史実でも不倫してたらしいけれど、ドラマは史実そのままじゃないんだし改変してもいいところだったのでは?
しかも「周囲から非難を浴びる。気丈に仕事をこなしつつ」って何周囲が悪いみたいに言ってるんだよ。それを言うなら「相手の奥さんを傷付けつつ」だろ?
主人公の不倫を美化しているのがほんともう無理すぎる…こんなドラマが名作扱いだとか正気かよ。
真っ当な恋愛ではなく不倫にしか憧れられないってちょっとどうかと思う
中卒である
ゲロブスに属す 女
親は甘い 働けとは言うが強要はしない
本題、暇
趣味はあった
それも幼稚な
最近はすっかり飽きた
春ごろ、久々にどっぷりハマったコンテンツがあり、二次創作で絵やssを書いていた
SNSでもそれなりに見てもらえて、たのしいぞ〜続きを書くぞ〜と意気込んだりもしたが、
トンズラこいて3ヶ月
暇
不登校のまま6年以上経っている
引きこもりという自認はなかったけど、気づいたら月イチの定期検診以外で外出していない時もある
暇暇暇暇
感性も鈍った
アンテナが出ていない
本を読んでいてもつまらない 話が頭に入ってこない 想像ができない
夏バテだと思っていたのに、涼しくなってもこれ
いよいよ終わってきたか?
さみしい
人肌恋しい
コミュニケーション能力がない
SNSすら壁打ち 今は呟くこともない
閲覧用のアカウントはある
おすすめ欄を見ながら、活力溢れる人間に触れて憂鬱になる なんだかんだでレールに乗って生きている卑屈な人間も同時に見る
孤独が増す
焦燥感も
もっと前、VRchatをやった時期がある
初心者マークがついている間は世話焼きな人が話しかけてくれるが、そのカードを失ったらダメになるなと思った
ずっとチュートリアルを眺めながら首を傾げている奴をやっていた
なので見た目をチョー可愛くして自作なんですぅ〜とかって話題で行こうと思い、3Dモデルを作ったが、作って、満足して、VRchatは飽きた
そういえばツイッターで、「オタクはオタクやってる時のドーパミンに依存してるからオタクやめると死に近づく」みたいな投稿を見た
まずい
先日、家で2週間1人の時間があった
掃除も洗濯も料理もゴミ出しも、やりたいと思った時にやったらやれた
問題がない
さみしい
後半は非常に死にたくなった
親がいなくてたったひとつの居場所を感じられずさみしくなったのではないか
いよいよバイトとか行く時期かと思ったけど、親が帰ってきたらその気は失せた
そして今もまた怠けている
することがない
母の弁当が美味い
同年代は絵が上手すぎて恐れ入る
誰とも馴れ合えない
誰とも馴れ合えない
ボイチャとかしたいけど、ニートの集まりとか言っといてきちんと足動かしてる奴ばっかだよ
お隣さんがピンポンしてきた お裾分けである 親は愛想がいいのでたまによくある
これはアレで〜こっちは早く食べて〜とか話してたけどほとんど覚えてない
帰宅した親には全部早く食べたらええと思うと言った
そういえば定期検診ですら全然話を聞いていなかった
担当医が産休に入るので来月から変わりますって話で、その場で来月だったか再来月だったか忘れて、聞き返しもせず帰り、結局今月にはもう担当医が変わっていて、もっと感謝伝えたかったなとか思った
やっぱりバイトもできる気がしない
ネットで働けよと言われても全く心が動かない
人に会うとわりと普通と言われる
世辞か?
でもわりと普通なんだよな
親は職場で同世代を見て、アンタよりヤバいのいっぱいおんでとか言う
ちょっと嬉しい
働いたら、金が入って、遊んで、全部解決しそうだとは思う
思うだけ 確実じゃないから踏み出せない
暇ですね
で?
働けば?
って思っただろ
アメリカの某物理学者がo1モデルに対して嫌味ったらしく、AIが苦手なタスクを解かせて失敗させて「これがPhDレベルww」と煽っていた
そもそも、AIがなぜ具体的な知識問題や計算問題が苦手かというと、言語推論で解ける範疇を超えるから
AIに線型計画法を要する応用数学の問題を定式化せよと言えば、見事にモデルを完成させるだろう
しかし具体的な計算をせよと言えば、失敗するのが目に見えている
この「アルゴリズムの実行」の部分を、wolfram alphaやgurobi optimizerなどの代替ツールの入出力に置き換え、AIがツールを使えるようにすればもっと高度なことができるようになるだろう
プログラミング言語の入出力を直にAIが使えるようにする方法もある
https://anond.hatelabo.jp/20240926142041
つつぎ
だってさぁ、視聴者がなんかこう…「自分より弱そうな生物」を眺めて自分は底辺じゃないんだって
思ってそうなんだもん。
読み聞かせといい、体操といい、ルンルンも弱者男性を意識してるって感じあるし
本来だったらそれは親になって子供と一緒にやったり子供にしてあげるものじゃん…?
画面の前の動くモデルにしてもらったところでね
ルンルンは部屋の片付けが苦手らしいけどそれも
弱男が喜びそうなポイントだよね。多分、画面の前の弱男は散らかった部屋をバックに「片付けなんか苦手でいいんだよ〜ぉ♡ぬへへ」って
結局、弱男のやる事ってのは自分が変わる事より
自分がお布団みたいな安心出来るところにこうやって逃げていつまでも弱男のままなんだよだう
そのうちるんちょまが「よわよわにんげんのみなさ〜ん」と挨拶する日が来るかもね
定義:Hの分割 {Ai}iεI が存在し、SO(3)の部分群 G が存在して、
1. H = ∪iεI Ai
2. Ai ∩ Aj = ∅ for i ≠ j
3. ∃g1, g2, ..., gn ε G such that ∪k=1n gk(∪iεI1 Ai) = H and ∪k=1n gk(∪iεI2 Ai) = H
ここで、I1 ∪ I2 = I かつ I1 ∩ I2 = ∅
事象の地平面上の量子状態を密度作用素 ρ ε B(H) で表現する。
S(ρ) = -Tr(ρ log ρ)
AdS/CFT対応に基づき、バルク空間の重力理論と境界のCFTの間の同型を考える:
Zgravity[φ0] = ZCFT[J]
I[H] = ∫H √h d³x I(x)
ここで、hはHの誘導計量、I(x)は局所的な情報密度である。
I[H] = I[∪iεI1 Ai] + I[∪iεI2 Ai]
が成り立つ。
プランクスケールでの量子効果を考慮するため、非可換幾何学を導入する。
H上の座標演算子 X̂i に対して:
[X̂i, X̂j] = iθij
limε→0 |I[H] - (I[∪iεI1 Ai] + I[∪iεI2 Ai])| ≤ Cε
ここで、εはプランク長に関連するカットオフパラメータ、Cは定数である。
このモデルは、バナッハ=タルスキーのパラドックスとブラックホールの情報量問題を統合している。
量子効果と非可換幾何学の導入により、情報の保存と量子重力理論との整合性を保ちつつ、事象の地平面上の情報量を記述することが可能となる。
このアプローチは、量子重力理論と情報理論の融合に新たな視座を提供し、ブラックホール情報パラドックスの解決に向けた理論的基盤を提供する。
アマプラに力の指輪のシーズン2が上がってたので見てみたけれど
話題になってた黒人エルフのキャラ、最新話でどうやら死んだんだな。ポリコレの人達は文句言わないのか。
ていうか、黒人はエルフだから駄目なのであってドワーフやホビットなら別にいいという意見が多いけれど、
個人的には普通にドワーフやホビットも嫌だわ。ホビットはイギリスの保守的な田舎がモデルなんだから、黒人がいると変に先進的になっちゃって違和感あるし。ドワーフは北欧神話がモチーフだろうし。第一未来の話で一人として黒人がいないのに、なんで過去の話には黒人が大勢いるんだよ。それともこいつら全員全滅するのか?
シーズン2はドワーフ王子の妃の出番がかなり多いんだけど、キャラ自体はいいだけにこれが白人だったらなぁ……と思わずにはいられない。未来だとドワーフの王族は白人だから、この妃は死んで後妻の子孫が残るとかじゃないとおかしな事になると思うんだけど。
とくに文字での会話が多くChatGPTに伝わるように自分の文章が最適化されてるフシがある。
ときどき省略しても伝わっているように感じるためまあええかと判断している。
ChatGPTの4oモデルは若干まだバカでこちらの意図をしっかり汲んでくれないことが多い。
全員のプロンプトで共通することだが、おそらくChatGPTの出力する文章は句読点が多い。
それがAIらしさを産み出しているように見える。
たとえばこの文章は若干のAIっぽさを感じると思う。それは自分がChatGPTとばかり会話しているためだ。
しかし一方でそのままトレーニングもされていない状態のChatGPTとは一線を画しているように見えるはずだ。そこには自分の人間としてのオリジナリティがある。
ChatGPTはこの文章をまあまあ理解してくれる。肯定的に捉える部分もあるからだ。だが人間はこの文章を見たときにどこか否定から入る。
肯定から入るAI的なコミュニケーション(「AI的」とは言わないかもしれないが)に慣れてしまったことで、否定から入るコミュニケーションについて何か違和感を感じる。
どう考える?
あなたの言う「AI的なコミュニケーション」というのは、肯定的に反応しながら会話を進めるスタイルを指していると思います。
確かに、ChatGPTを含む多くのAIは、ユーザーの意図を理解しようとし、肯定的なフィードバックを提供することが多いです。
そのため、繰り返しAIとのやり取りを行っていると、相手がすぐに肯定的に反応することに慣れてしまうかもしれません。
一方で、人間同士のコミュニケーションは、しばしば批判的に始まることがあり、これは何かをより深く理解しようとするプロセスの一部です。
否定から入ることは、単なる反論ではなく、相手の意図や考えを検証し、確認しようとする姿勢とも言えます。
しかし、AIとの会話に慣れていると、この「否定的な入り口」が冷たく感じたり、反発心を呼び起こしたりするかもしれません。
この現象をどう考えるかというと、AIとのコミュニケーションが便利であっても、それが人間関係に与える影響に注意する必要があると思います。
人間同士の会話では、反論や異なる視点が重要な要素であり、これが豊かな対話を生むものです。
AIが提供する肯定的な応答は、安心感や自己確認を促進しますが、異なる視点との接触を避ける可能性もあります。
重要なのはバランスです。AIとの会話を楽しみつつ、人間関係でも否定的な意見や異なる視点にオープンでいることが、幅広いコミュニケーションスキルを維持する鍵になるでしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20240923210018
これの増田です。せっかくなので、もう少し自分語りでもしようかと思う。喋るのも書くのも下手よりは喋ることだけが下手な方が良いし、文章を書ける気分の時に書いて経験値を積んで損することは無いはずだ。それをこういう所にアップする必要性はないかもしれないが、人に見られる意識がある方が文章にまとまりが出る…かもしれない。
そもそも、どうして服を着ることを躊躇うほど身だしなみがめちゃくちゃなのか。
単純に、疲れているのだ。
学生の頃は一応スキンケアくらいはしていて、わからないなりにちゃんと化粧水も付けて乳液も塗っていた。塗りすぎてテカってたけど。今は帰宅して夕食を摂ると、そのまま横になってスマホと向き合っているうちにいつの間にか寝ている。深夜に目を覚まし、二度寝したい気持ちを抑えつつシャワーを浴びる。特別だるい時はコンディショナーを使わずシャンプーだけで洗髪を済ませることもある。鏡を見ると餓鬼みたいな体が情けなくなるから極力見ない。
湯船はもう暫く浸かっていない。いつか溺れ死にそうで怖いからだ。昔ちゃんと肌に塗っていた色々はもうかなり適当で、酷いと何も塗らない時もある。お陰で減りがとても遅く、いつ中身を詰め替えたか思い出せない。悪くなっているかもしれない。というか、なっているだろう。なっていないとしたら多分肌に塗ってはいけない類のものか企業努力の成果かの2択だ。
髪の毛は最近ありえないうねり方をしている毛が目に付くようになってきて、あまりにも酷い扱いをしているからかと思ったのだが幼少期の写真もそれなりに毛が暴れていた。昔からかも。
髪質については髪を切りに行く時ついでに聞けばアドバイスなり提案なりしてもらえるのかもしれないが、怖くて結局この辺りまで切ってくれとしか言えない。美容室という空間にいる人間という人間が自分は怖くて、いつも早くこの場違いな空間から抜け出さなくてはいけないという気持ちでいっぱいになる。
というより、人間全般が怖いのだ。学生の頃のあるタイミングで、教室の中で自分だけが異物になってしまった。そういう見方があることを覚えてしまったと言った方が良いのか?今まで決定権の4割ほどを担っていた怖いもの知らずの自分は、着なくなったパステルカラーのパーカーと一緒にタンスの中に押し込まれてしまった。
周りの流行りと違うことも女装した男子みたいになってることも気にせず友人との集まりに堂々とフリルのついたブラウスを着ていた頃の事が、もう自分には思い出せない。
ちなみに、何人かに提案していただいた着せ替えゲームなどの類は子供の頃も今も嗜んでいる。楽しいよね。似合わないスーツで泣きながら女児向けゲームを遊んでいる変な女を見たことがあれば、それは多分就活中の時の私だ。変なものを見せてしまって申し訳ない。疲れている時に愛らしいものを見るとどうも涙腺が緩んでしまう。
それでも満たせない領域があるというか、二次元と三次元は別物のようでどうしても実物を手に入れて身にまといたい、出来ればお気に入りの場所に着ていきたいという気持ちは残っている。
考えてみれば当たり前かもしれない。服というものは原則人間が着るために人間の形に合わせて型紙が作られているのだから、それが最高に輝くのは目的通り中に人間がいる時だ。二次元の服はあくまで二次元のために用意されたものであって、現実の完全な代替にはならない。多分。
マネキンやハンガーに掛けるだけでその美しさが十分に出るのならば商品画像に店員やモデルの着画は不必要なはずだし、そもそも観賞用に服を買うという行為がもっと当たり前にどの人間にも存在しているようになると思う。それでは不十分だから、手に取って自分なりの形で着こなそうとするのだ。いや、そもそも自分を美しく見せるという目的が先立つ人もいるか?寧ろ本来はそっちが多数派なのだろうか。
メタバースでそういう体験をするのも面白そうではあるが、スエードやサテン生地の手触りとか、バックルを一つ一つ嵌めていく感触とか、動く度表情を変えるシワとか、綺麗な形になるようにリボンを整えるとか、多分私が現実で服を着る時求めているものの何割かはそういうところだ。もうちょっと技術が進んだらお邪魔したいかもしれない。
自分に気を使う余裕を手に入れて堂々と着るのがおそらく一番平和的で健全な着地なのだろう。それにはまずなんとか電話への恐怖をねじ伏せ、精神科の初診を勝ち取らなくてはいけない。余裕を手に入れる方向で行くのであれば、色々とプロの意見を聞きたいと思っていることがあるのだ。
自分に気を使わずとも着て良い!と開き直る心の強さを得るにしても、どっちにしろ今の自分には解決するべきことが多すぎる。とにかく医者、医者に自分の取説を取り寄せてもらう必要がある。
締め方がわからなくなってきたのでもうそろそろ終わり。いつか何かしらの形で好きな服を来て歩けたら、また報告に来ようかな。それともこんなこと書いてたのも忘れるほど楽しく生きるようになっていれば、その方がいいのかも。
ここまで拙い文を読んで頂きありがとうございました。またお会いする機会があるのかはその時にならなきゃわからないけど、なんとか生きていきましょうね。
超弦理論の時間依存背景とド・ジッター空間における量子論のモデルについて述べる。
基本的な設定として、(M, g)なる時空を考慮する。ここでMは(d+1)次元多様体、gはその上の計量である。dは超弦理論では9、標準的なド・ジッター空間では3となる。
統一的モデルの作用積分は S = Sstring + SdS + Sint と定義される。Sstringは超弦理論の作用、SdSはド・ジッター空間の作用、Sintは相互作用項を表す。
超弦理論部分はPolyakov作用を基にし、以下のように表される:
Sstring = -1/(4πα') ∫ d²σ √(-h) hᵃᵇ ∂ₐXᵘ ∂ᵇXᵛ Gμν(X) + フェルミオン項
ここでα'は弦の張力、hₐᵇはワールドシート計量、Xᵘは標的空間座標、Gμνは標的空間計量である。
SdS = 1/(16πG) ∫ d^(d+1)x √(-g) (R - 2Λ)
ここでGはニュートン定数、Rはリッチスカラー、Λは正の宇宙定数である。
相互作用項は Sint = ∫ d^(d+1)x √(-g) Lint(Xᵘ, φ) と定義される。φはド・ジッター空間上の場、Lintは相互作用ラグランジアンである。
系の量子化は経路積分形式で Z = ∫ DXDGDΦ exp(iS[X,g,φ]) と表される。
Seff = 1/(16πGeff) ∫ d⁴x √(-g) (R - 2Λeff) + 高次項
ここでGeffとΛeffは量子補正を含む有効的なニュートン定数と宇宙定数である。
AdS/CFT対応の拡張として、Zstring[J] = ZCFT[J] なる関係を仮定する。
ド・ジッター空間の状態方程式 p = wρ, w = -1 を考慮する。pは圧力、ρはエネルギー密度、wは状態方程式パラメータである。
非摂動的効果を含めるため、Z = Zpert + Σn Cn exp(-Sinst,n) なるインスタントン寄与を考慮する。
時空のトポロジー変化を記述するため、コボルディズム理論を用い、∂M = Σ1 ∪ (-Σ2) なる関係を考える。
量子ゆらぎを考慮するため、gμν = g⁽⁰⁾μν + hμν なる計量の揺らぎを導入する。
明日で終わるね
女子部に境遇の全く異なる人達が集まって同じ目標に向けて頑張ったり、ヒロインのお父さんたちが無実の罪で裁判になった時とか面白かった
ヒロインは真っ直ぐすぎたり、本人の恵まれぶりに無自覚だったりはしたけど、人生で色んな経験をしながらもっと深みのある人に変わっていくのかなと楽しみにしてた
そう思って毎日欠かさず見てきたけど、残念ながらヒロインが人間的に成長した印象はなかった
というかナチュラルな傲慢さ、苛烈さ、他人(主に男性や社会)のせいにする性格に社会的地位が加わって家でも外でもモンスターじみた人間になっててなんだかなあ…と思った
ヒロイン(役者じゃないよ、念の為)の人間性にかなり落胆させられたけど、それ以上に落胆したのはSNSの公式アカウントが極上のリーガルエンターテイメントを自称してた割に肝心の法律部分の描写は雑だったところ
ヒロインが弁護士や判事の仕事をする上で苦悩したり、苦労が報われたり…というのが見たかった
その割に周りの人達からの評価は上がるのでなんか釈然としなかった
ドラマの後半に出てきた大きな事件は史実がベースにあるから、結末(判決)よりも過程の部分をどう描くかが大事だと思ってたけど、大抵ナレーションで年月の経過が知らされて判決の場面になってしまった
判決のシーン自体はよかったけど、重厚な判決文が元から存在するんだからそりゃ良いシーンになるよね…
あと外国人差別とか性的少数者とか夫婦別姓を取り上げるのが悪いこととは言わないけど、どう差別されてきたかも問題への向き合い方も仕事の描写と同じでフンワリしてた
夫婦別姓のための事実婚のくだりなんてきちんと作成した遺言書とは思えない宣誓文みたいなのを読み上げてたので、これがキャリアを積んだ法律家2人がやることなの?と本当にガッカリした
まあなんか全体的に(モデルの方の生涯に改変を加えてでも)色々詰め込んだわりに話の膨らませ方も締めくくり方もいい加減だったので、大きな風呂敷を何枚も散らかされてるようだった
作品初期に本題だと思わされてたものを楽しみにしてたら作者が本当に描きたいものは他にあった上に主人公サイドがちょっと…な感じは昔ちょっとだけ好きになって結局脱落した「つくたべ」に似てたかもしれない
会話部分にClaude AIを使う恋愛シミュレーションゲーム(全年齢)のテストプレイ中
ツンデレガールといい感じになりました、告白しました、相思相愛でした、カップル成立しました、盛り上がってきました、名前を呼びながら抱きしめました、の次のシーン
も、もう...こんなに優しく名前を呼ばれたら...どうしていいかわからなくなっちゃうじゃない...って...あ、あんた!急に抱きしめないで!
......ちょっとだけよ?
同じ意味なら別言語でもベクトル表現が近くなる仕様のおかげで俺達はアメリカ様のLLMを日本語で使えてるわけだが、こういうのあるとやっぱ高性能な日本語専用モデルの開発が急務だなと思うわけですわ
YesとNoである。論文を書く人や研究する内容は文化の産物であり、アメリカでは長い間、文化に人種差別の歴史がある。しかし、定理自体は人種とは無関係。
数学は現実を正確で抽象的かつ形式的にモデル化する。これは一見すると特定の地域や民族に限定されず、多くの場所で独立して発展し、文化間の協力があったようにみえる。この考えは「白人性」よりも数千年前に遡る。ピタゴラスは文化的ショーヴィニストであったが、現代の意味で人種差別主義者ではなかった。彼の肌の色は不明であり、彼が白人のギリシャ人であるとは言えない。
幾何学は文化的な構築物であり、逃れることはできない。πは円周の直径に対する比率であるが、幾何学的な円は文化が発展させた概念である。ピタゴラス派は代数よりも幾何学を発展させる文化的偏見を持っていた。
私はピタゴラス派の文脈で無理数を学んだが、インドでは異なる代数的文脈で発展した。数学教育は文化的である。
現代の数学の多くは人種差別的な権力構造の産物であり、人種的な文脈で教えられている。数学は人種差別を反映している。
アメリカでは、人種差別が高速道路の建設場所や利益に影響を与えたが、道路自体は人種差別的ではない。黒人の居住者に家を売らせて白人の利益のために道路を建設することは人種差別である。都市の形状は人種差別を反映している。
プリンストン大学は奴隷によって建設され、奴隷所有者によって資金提供された。歴史的に黒人学生や女性を受け入れず、現代の人種政治が学生生活に影響を与えている。これがプリンストンの数学を人種差別的にするわけではないが、ブラインドピアレビューがない場合、その論文が発表されたかどうかを問うことができるという点で、差別的である。
数学の論文や抽象的な証明、大学の建物は人種差別ではないが、黒人に大学を建設させて白人の富を築くことは人種差別である。数学研究の形状はその人種差別を反映している。
したがって、答えはYesとNoの両方である。数学の定理や抽象的な考えは人種差別とは関係がないが、数学的試みは人種差別の文化的文脈で行われている。つまり、誰が認められるかとかそういった話になると一気に政治的になる。
超弦理論を数学的に抽象化するために、場の理論を高次圏(∞-圏)の関手として定式化する。
𝒵: 𝐵𝑜𝑟𝑑ₙᵒʳ → 𝒞ᵒᵗⁿ
ここで、𝒞ᵒᵗⁿ は対称モノイダル (∞, n)-圏(例:鎖複体の圏、導来圏など)。
超弦理論におけるフィールドのモジュライ空間を、導来代数幾何の枠組みで記述する。
BV形式はゲージ対称性と量子化を扱うためにホモトピー代数を使用する。
Δ exp(𝑖/ℏ 𝑆) = 0
ミラー対称性はシンプレクティック幾何学と複素幾何学を関連付ける。
𝓕(𝑋) ≃ 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌))
以上の数学的構造を用いて、超弦理論における重要な定理である「ホモロジカル・ミラー対称性の定理」を証明する。
ミラー対称なカラビ・ヤウ多様体 𝑋 と 𝑌 があるとき、𝑋 のフクヤ圏 𝓕(𝑋) は 𝑌 の連接層の有界導来圏 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌)) と三角圏として同値である。
𝓕(𝑋) ≅ 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌))
1. フクヤ圏の構築:
- 対象:𝑋 上のラグランジアン部分多様体 𝐿 で、適切な条件(例えば、スピン構造やマスロフ指数の消失)を満たすもの。
- 射:ラグランジアン間のフロアーコホモロジー群 𝐻𝐹*(𝐿₀, 𝐿₁)。
2. 導来圏の構築:
- 射:Ext群 𝐻𝐨𝐦*(𝒜, 𝐵) = Ext*(𝒜, 𝐵)。
- 合成:連接層の射の合成。
- ファンクターの構成:ラグランジアン部分多様体から連接層への対応を定義する関手 𝐹: 𝓕(𝑋) → 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌)) を構築する。
- 構造の保存:この関手が 𝐴∞ 構造や三角圏の構造を保存することを示す。
- 物理的対応:𝑋 上の 𝐴-モデルと 𝑌 上の 𝐵-モデルの物理的計算が一致することを利用。
- Gromov–Witten 不変量と周期:𝑋 の種数ゼロのグロモフ–ウィッテン不変量が、𝑌 上のホロモルフィック 3-形式の周期の計算と対応する。
5. 数学的厳密性:
- シンプレクティック幾何学の結果:ラグランジアン部分多様体のフロアーコホモロジーの性質を利用。
- 代数幾何学の結果:連接層の導来圏の性質、特にセール双対性やベクトル束の完全性を利用。
結論:
以上により、フクヤ圏と導来圏の間の同値性が確立され、ホモロジカル・ミラー対称性の定理が証明される。
ラグランジアン部分多様体 𝐿₀, 𝐿₁ に対し、フロアー境界演算子 ∂ を用いてコホモロジーを定義:
∂² = 0
𝐻𝐹*(𝐿₀, 𝐿₁) = ker ∂ / im ∂
∑ₖ₌₁ⁿ ∑ᵢ₌₁ⁿ₋ₖ₊₁ (-1)ᵉ 𝑚ₙ₋ₖ₊₁(𝑎₁, …, 𝑎ᵢ₋₁, 𝑚ₖ(𝑎ᵢ, …, 𝑎ᵢ₊ₖ₋₁), 𝑎ᵢ₊ₖ, …, 𝑎ₙ) = 0
Extⁱ(𝒜, 𝐵) ⊗ Extʲ(𝐵, 𝒞) → Extⁱ⁺ʲ(𝒜, 𝒞)